餘部駅ができた

投稿日:2024.12.23

 明治45年3月1日 山陰本線は全線開通しました。本線の最大の難工事であった余部鉄橋が完成

したことで京都から下関まで一本のレールが繋がりました。しかし余部の人達の悲願であった駅はつ

くられませんでした。余部の人達は汽車に乗るために崖をよじ登り、目もくらむような鉄橋を渡り

トンネルを4つ超えて鎧駅まで歩いて行くのですが、トンネルの中は滑りやすいので、祖母の編んだ

わらじに履き替え懐中電灯を各自が持って、まだ煙の臭いの残るトンネルに入っていきました。列車

の時刻は熟知していたので汽車の来そうなときはトンネルの入り口で通過するのを待っていました。

町長や住民が、こんな危険な事をして汽車に乗らなければならない実情を国鉄本社、兵庫県庁などの

各方面に訴えて駅をつくってほしいと陳情するのですが赤字を出してまで駅はつけられないと取り

合ってもらえませんでした。

 しかし、余部の子供たちの一通の手紙が関係者のこころを動かすことになったのです。その文面の

一部を当時の新聞記事の中から抜粋します。

「私たちは香住町で開かれる文化祭に参加するために、毎日放課後、高い余部鉄橋をわたりトンネル

を超えて隣の鎧駅まであるいていかなければなりません。山越か、暗いトンネルかどちらかです。楽

しい文化祭に行くにもこんな辛い目をしなければなりません。一日も早く駅をつけてください。お願

いです。谷底みたいな私たちの郷土がきっとよくなり、みんなが楽しく明るい生活ができるようにな

ります。  十河国鉄総裁様」この手紙を読んだ国鉄総裁、坂本知事が動かされて駅の新設がきまり

ました。 駅の建設工事には大人だけでなく子供たちも資材の運搬を手伝いプラットフォームが完成

して昭和34年餘部駅が新設されました。山陰本線開業から実に47年が経過していました。

待望の一番列車を迎える余部の人達の喜びはどんなに大きかった事でしょう。

 しかし、そもそもなぜこんなに高い鉄橋をここにつくらなければならなかったのでしょうか?

それは、また次の機会に・・・

 

 

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