余部橋梁
投稿日:2024.12.14
兵庫県を通る山陰本線の鎧駅と久谷駅の間にかつての余部鉄橋があった。高さ41m、橋長310m鋼鉄
製の美しいトレッスル橋で、当時は東洋一の高さと言われていました。明治41年から工事が始ま
り、明治45年に完成しました。京都から下関までの山陰線の建設で最大の難所がこの余部橋梁
で、工事中には2人が転落死する事故も発生しました。鋼材の製作はアメリカの会社で(アメリカン
ブリッジ)が製作しました。船で九州の門司港に運ばれた鋼材は内地汽船・弓張丸に積み替えられ、
余部沖ではしけに移し陸揚げされました。陸揚げを失敗すれば鋼材をまたアメリカから取り寄せなけ
ればなりません。絶対失敗出来ない張り詰めた空気の中、無事に作業は完了しました。
使われた鋼材は、994トン、リベット数67,000本、足場丸太約20,000本が使われ、総工費は33万
円を要した橋は明治45年3月1日山陰線の全線の開通を遂げたのでした。
しかし、村の中に鉄道が敷かれましたが地区の人達は喜べませんでした。ここに駅が作られなかっ
たのです。当時、陸の孤島であった余部の人達は香住の町まで行くのに、徒歩で山を越えるか、船で
海を渡るしか方法はありませんでした。なんとか駅をつくってほしいと町長や区長が鉄道総裁に陳情
書を出しましたが、年500万円の赤字を出してまで駅はつけられないと取り合ってくれませんでした。
しかし、余部小学校の子供たちが送った1通の手紙が関係者のこころを動かす事になったのです。
山陰線開通から42年後に駅が新設されることになったその手紙の内容とは又次の機会に・・・